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カテゴリー: ミュージシャン
(2023年04月04日)
投稿者:suoyon
おおたか静流の会






『おおたか静流を聴く会』

昨年9月に旅立ってしまった、オンリーワンなシンガー
おおたか静流。
彼女と伝説のユニットdidoで活動し、その他でも多くのコラボレーションした
作曲編曲家の加藤みちあきと私周防義和の2人で『おおたか静流を聴く会』を開催することにしました。

『おおたか静流を聴く会』
加藤みちあき 周防義和
スペシャルゲスト:甲田益也子(dip in the pool)
場所: FJ's
   http://fjslive.com
東京都目黒区中目黒5-1-20(駒沢通り沿い祐天寺近く)
TEL:03-6303-1214
Mail: info@fjslive.com

日時:6月23日金曜日
   open 18:30
   start 19:00
   charge\3000+ドリンク\300(ミニマム)
予約は上記のFJ'sまで。

加藤みちあきさんからはdidoの秘蔵!映像やCM曲も含め数々のコラボ作品、
勿論didoの曲を解説しながら聴きたいと思います。

僕はCM曲、それと1987年頃の自宅録音した未発表曲も
はじめて世の中に出しちゃおうかと思っています。
Voice From Asiaというバンドでは数年間一緒に活動したので、そんな
話題もいろいろあります。
キース・ジャレットの「My Song」、スタンダード曲「Lover Come Back to Me」を歌ってる、
なんていう未発表テイクもあるんです。
また静流さんと交流した方々からのエピソードもあれば現場でうかがいたいです。

今あらためて聴いてもおおたか静流というシンガー、ヴォイス・パフォーマーは
独自の表現力、変幻自在の声、リズムグルーヴの凄さ、アドリブ、
無国籍ノンジャンルな世界観に対応する柔らかい能力、と凄すぎる人でした。
僕やみちあきさん、そしていつも仕事をしていたすべての方々に尊敬されていた
シンガーでした。

飄々とした気取らない人柄、メソメソした人でもないので当日は明るい会として
彼女の歌を我々加藤みちあき、周防義和を通した『おおたか静流を聴く会』として
皆さんと楽しく思い出す時間を過ごせたら最高だと思います。
モデル、シンガー、女優の甲田益也子の参加もご期待ください!
是非ご参加ください!

ご参加の皆さんへは未発表テイク集CDRのプレゼントを計画しています!
カテゴリー: ミュージシャン
(2023年03月20日)
投稿者:suoyon
shorter's albums



Wayne Shorter追悼#3

マイルス、チック、フレディ・ハバード、マッコイ・タイナーと1960年代に日本では
新主流派とか呼ばれた(まあマイルスはマイルス、チックはチックだけど)
アルバムを次々に出してたミュージシャンが旅立ってしまった。フレディ・ハバードなんかは
凄いテクニックのトランペッターだったし、ハンコックの『Maiden Voyage』で凄いソロしてる。
マッコイもコルトレーン死後少ししてから急にコルトレーンの後を継ぐような
アルバムを連発していて凄い勢い感じた。
そしてLydian Flat7thの師匠、チック・コリアがいなくなり、ショーター先生ときちゃう。

ショーター、死ぬ直前までエスペランサ・スポルディングという
若き天才肌のミュージシャンとコラボしているのも凄い。

振り返って
ウェイン・ショーター、1960年代っていうと。
モダンジャズ(スウィング・ジャズは白人の軽いダンス音楽と考え硬派な人はジャズ扱いしていないので
モダン・ジャズ、パーカー以後がジャズという考え方)を作ったチャーリー・パーカーから
1950年代にはハードバップへ進化し
それらを受け継いだ時代で、一方にオーネット・コールマンがフリー・ジャズを
提示し。そしてフリーまではいかなくて全体の枠はあり、みたいなモード手法の発展があり、
バップ以後コード進行が複座になりすぎインプロヴィゼイションの自由さを求めた演奏家たちは
いろんな手法を模索しつつ1960年代を生きた。

1960年代中期からはエレクトリック、ロックといった新たな価値観、
技術革新のなかで1960年代末は混沌となっていき・・・いやいやメチャ面白い時代でした。
誰かがアルバムを発表するたびにワクワクしたし、それまでの音楽を壊していく、みたいな。
それは業界の枠みたいなものにも革新が起きてフリーコンサートとかも起き、
その後産業として巨大になり過ぎて、マーケティング的に売れ線みたいな考え方になる直前、
いい加減な感じを含めてミュージシャンの自由度が高かったような気もする。
勿論食うことを考えないと、という面はいつの時代もあるけど、確立された体制に向かっていく、
みたいな価値観が若者の間で共有されてた気がする。今はちゃんと売れることやろう、
お客さんが喜んでもらえること、といった良くも悪くも商業的に発展しすぎたような価値観が全体を支配する時代。

ショーターさんは神秘的な曲がひとつのコンセプトで、ハードバップの普通な曲の書き方から早く抜け出し、
オリジナリティを感じる音楽を作ってた。しかし当初ロックをすぐには受け入れていない。
こういうところも自分でコンセプトが建てられる人だから、ロックが流行ったからといってすぐに飛びつかず、
やらされてる感がないのがショーター。マイルスはいい意味で若者の中に飛び込みたかったんでしょうね。
名作でいて大問題作『Bitches Brew』(Miles Davis)の中のショーター作品はアルバム中唯一4ビート系だし、
写真中央の上から2番目の『Odyssey of Iska』もリズムはブラジル寄り。
そしてミルトン・ナシメントというブラジルの素晴らしきシンガーソングライターを世界に紹介したり。
WEATHER REPORTになるとロックリズムも取り入れている。
カテゴリー: ミュージシャン
(2023年03月12日)
投稿者:suoyon
super nova


SUPER NOVA(1969)《ショーター追悼その2》

1969年の11月に三島由紀夫が自決し、一方ではベトナム戦争反対、ヒッピムーブメント、
学生運動、70年安保とか世の中が動いていた時代。
自分の通う高校も学園紛争の波が押し寄せ学生運動家たちによって秋に学校が占拠、
封鎖され僕らは翌年の4月まで授業がなかった。(→学校の授業ないので勉強もしなくなっちゃった)

音楽のほうではマイルスの『IN A SILENT WAY』(1969)『BITCHES BREW』(1970)と問題作が連発、
従来の4ビートのジャズに革命が起こったような刺激的な時代だった。
ジャズ保守派からはロックに迎合したという意見もあるが『BITCHES BREW』は通常のロックビートではないし、
普通のポップなコード進行の曲でもない。そんなイージーなロック迎合ではない。

ただマイルスは「俺は世界一凄いロックバンドができる」と豪語していた。
マイルスはロックの奴らが凄い稼いでいるのにアタマ来てたし、いつまでもジャズが
夜のクラブで酒のつまみBGMしてることから抜け出したいという強い気持ちがあったのだろう。
ワイト島の野外ロックコンサートに前座扱いの昼間に出演している。
すでに巨匠域のジャズマンがだ。
またジミ・ヘンドリックスやファンク系にも興味をいだいていた。

坂本龍一さん(父親が三島の編集に関わった方らしい)も当時東京芸大作曲科に入った、
しかし『BITCHES BREW』とかが出ているし、学生運動等激動の時代なのに、
みんなクラシックのお花畑状態で違和感を感じだんだん行かなくなった、と言っている。
ただ民族音楽の小泉文夫の講義は受けてたとか、民族音楽と電子音楽の興味に傾いていった、
ということらしい。僕も小泉文夫の本は殆ど読んだ、当時のテレビ出演もよく見てた。

写真のウェイン・ショーターの『SUPER NOVA』(1969)もそういった革新的なアルバムだった。
ショーターはソプラノサックスを吹き、コード進行の音楽ではない、
そしてモード手法の概念をさらに超えてアブストラクトな世界観にいっちゃった。
これはやはり60年代フリージャズや現代音楽のアヴァンギャルドということだろうか。
ショーターの場合、ロック的なリズムにはいっていなくて南米寄りの感じ。
ただ時折リリカルなメロディがあり、僕は「Capricorn」という全体はルバートで演奏される曲の
モティーフをアレンジして自分達のバンドで演奏していた。
一見カッコよく聴こえるが、今聴いたら高校生の稚拙なアレンジではあろう。
ただコピーとかではなく原曲を壊して独自の発想に置き換えて演奏していた。文化祭でやったと思う。

この『SUPER NOVA』ではジャズやロックを自在に超えて弾きまくるギタリスト、
ジョン・マクラフリンの出現も凄かった。
『BITCHES BREW』では演奏がすごくてマイルスはある曲名に「ジョン・マクラフリン」と命名しているくらい。
またその後ショーターとWEATHER REPORTを結成するチェコ人ベーシストのミロスラフ・ヴィトウスも参加、
またチック・コリアもドラムとヴィブラフォンを演奏している。
集団的な即興アンサンブルで厳密なソロ回しはない。

1曲だけアントニオ・カルロス・ジョビンの「Dindi」が唯一メロディアスな普通の曲。
この名曲をマリア・ブッカーが歌い。
最後は感極まったのか、泣き声が入っている。
ただこの名曲も前後はアブストラクトな演奏で情緒的に流されていない。
1曲目のペシミックな1モティーフをひたすら展開即興する「Super Nova」は
疾走感の凄い曲、珍しくショーター吹きまくる。
「SweaPea」はチックのヴィブラフォン、ウォルター・ブッカーのガットギターが
神秘的に導入,独自の抽象的なバラードともいうべきか。
マイルスバンドでもやっていたリズムキープの聴きやすい「Water Babies」とめちゃ好き。
ピアノがいないので和声が支配的にならない、いい意味での揺れ、きちんとした感じじゃない
のがとてもいい。ピアニストがいると和声に安定感が得られるがセンス悪いとこういう曲では最悪。
モード系のジャズはコード進行というレールが敷かれていないので
素人ジャズには手を出せない部分がある。概念を理解するのが難しい。

アイアート・モレイラ、ジャック・ディジョネットと最強メンバーがまたいい。
カテゴリー: ミュージシャン
(2023年03月04日)
投稿者:suoyon
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WAYNE SHORTER

感謝しかないです、ショーター先生!
(先生って、こちらが勝手に言ってるだけですが)
音楽家としての最大のリスペクトの存在、作曲家、サックス奏者の
ウェイン・ショーター、89で・・・
2018年の遺作となっている『EMANON』(No Nameの逆さ字)は
80代半ばで作ったことになるが、なんとこの攻めの姿勢!
最後まで余裕でスタンダードを吹くとかじゃなくて、作曲家演奏家
として現役でした。グラミー賞を12度受賞ですか、凄い。

とにかくコンセプチュアルな人。オリジナリティの人。こだわりの人。
若いときからすでにオリジナリティが備わっていたような印象。
1960年代にマイルス・デイヴィスのバンドに入ったが、ショーターの曲は
マイルスは一言もダメ出しや文句つけることはなかったとハンコックは言う。
1960年頃にアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズで来日していて
その映像(確かTBSテレビで放映した)が残っているが、その時日本の
ジャズミュージシャンと交流して日本にモード・ジャズの理論的なことを
教えたという。まだ20代のショーター先生、すでにモードジャズの師です。

マイルスバンドにはハービー・ハンコックが先に入っていたがショーター加入で
ショーターの曲がマイルスバンドのメインになるとハンコックも影響受けて
ショーターのモードジャズの最大のパートナーになっていく。

1969年頃僕は高校生で渋谷ヤマハのジャズのレコード(アナログLP)の
定期的なバーゲンに友達と通った。そこで友達の市川がショーターの『SPEAK NO EVIL』(写真)を買った。マイルスでのショーターしか知らないので多分アヴァンギャルドじゃないかと思っていた。(1960年代の新たなジャズはモード派とフリージャズ派に分かれていた、そしてモードについてはよくわかっていなかった)市川が「良かったよ」と。しかし高校生で
流行の音楽に目もくれずショーターの『SPEAK NO EVIL』いいなんて言ってる、
その後のオタクに通じるかもだ。
そこからだ、ショーター先生を尊敬し何十年も聴くようになった。

ショーターはイマジネイティヴで神秘的な、ペシミックでアジア・アフリカみたいな価値観を60年代に持ち合わせていた。アメリカって前向きでイケイケじゃないと、
みたいなミーハー印象があるが、そして同時代の巨匠ジョン・コルトレーンがイケイケの求道者的な音楽に比べ、ショーターはバンドのアンサンブルとか全体でのカラーを大切にしていた。弾きまくれるテクニックがありながら、そうしたプレイはそんなにせず無駄を省き知的なアドリブをしている。
ジョニ・ミッチェルとのコラボも多いが、そういったショーターのアドリブの特徴が顕著に出ている気がする。

写真の『SPEAK NO EVIL』は1964年ニューヨークのルビーヴァン・ゲルダースタジオでのレコーディング。6曲すべてがモードジャズの名曲。
31歳のショーター、すでに50年代のバップを抜け出し自分のカラーの作品を発表している。
フレディ・ハバード、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、エルヴィン・ジョーンズでエルヴィンはコルトレーンバンドのドラマー。3連の小刻みなドラムワークが、マイルスバンドのトニー・ウィリアムスとはまた別の味。
ハンコックのモード解釈は完璧。この時期ハンコックかマッコイ・タイナーって
ことになるが(チック・コリアが出る前)、ハンコックのデリケートで大胆なプレイは凄い。
カテゴリー: ミュージシャン
(2023年02月15日)
投稿者:suoyon
TresJoyeuxUN (2)


Tres Joyeux 『UN』

30年前にBREW-BREWというバンドをやっていて何枚かアルバム出し、ライヴもやっていた。
その時のメンバーViolinの金原千恵子さんがCelloの笠原あやのさんとのユニットTres Joyeuxの
アルバム『UN』をリリースした。

いろんなコンポーザー、ミュージシャンが参加していて凄い凄い密度の濃いアルバム。
実は僕も1曲書いて、と3年近く前に依頼され僕の曲は弦楽カルテット編成で作曲した。
作曲仲間の加藤みちあきさんの曲もありアコギとの絡みが変化にとんだグルーヴが独自の雰囲気だったり、
他にもスパニッシュ風、クラシカル、ピアノとヴァイオリン、チェロの大曲だったり聴き応え充分。
金原さんはサザンの桑田、小田和正等ポップ系のトップミュージシャンのサポートでも有名だが、
そんな多忙の中にこういう自己発信、自己プロデュースの活動もやっているのはアタマがさがる。
カテゴリー: ミュージシャン
(2023年02月01日)
投稿者:suoyon
鮎川&シーナWOOD



鮎川誠旅立つ

まさか鮎川さん、膵臓癌だったとは・・・めちゃ寂しいです。
病を公表せずにライヴしてたとは・・・凄いミュージシャン魂!

凄~く濃い思い出あるんです。
30年前1993年の、今となっては伝説的な
フジテレビ深夜音楽番組『WOOD』で
Rolling Stonesの数曲を新たな解釈で編曲!ということで依頼され
鮎川誠&シーナのヴォーカルで収録し、
僕は編曲し同時にギター、グロッケン、パーカッション、
コーラスで出演もした。
番組の趣旨はアンプラグド時代の感じで、ダビングなし、全部せ~ので撮り録り、
アコースティック楽器のみ使用、その場でのスタジオ・ライヴ方式。

下北沢のダーツバーで最初の顔合わせ、そして鮎川さん宅で打ち合わせ。
鮎川さんが「衣装はライダーズ革ジャンにしよう」と。
僕は「持ってません」鮎川さん「僕のがいくつかあるからそれを貸すよ」と。
リハスタで僕のサックスカルテット編曲を聴いて、鮎川さん
「そうじゃなくて普通にストーンズをやろう」、
僕「普通はつまんない、変えたい・・」と平行線だった。
リハスタはまあまあ修羅場。
結局はアコギのキープリズムをがんがんこないと歌いづらいというあたりから
折衷案に落ち着き、自分のヴィジョンは崩れたがまあ収録は楽しく終えた。
鮎川さんも僕も同じR.Stones愛は変わらないのだが、アプローチは異なった。

シーナ&ロケッツはテクノ的な部分も取り入れてヒット曲してたが、
本質的には完全にロックンロール、ブルースの鮎川&シーナだった。
ベテラン、大御所だが業界的なビジネス感覚より
真っ直ぐなロック愛に溢れていた。温かい人柄でした。
鮎川さんのキース・リチャーズ風をマスターした
オープンチューニング5弦ギターは素晴らしかった。

ロック的な僕のコーラスを「周防君いいよ!」と誉められたが
その後、別の機会でお会いした時に「もう周防君のアレンジではやらないよ!」
と言いつつ熱い握手を交わした。いい感じです、これ。
音楽の真剣勝負なのでしょうがないです。
まあ僕も突っ張って攻めのサウンド求めてたので、
ちょっとだけ反省してます。
鮎川さんは武満徹遺作の『ファミリーツリー』(1996)の詩的な映像ドラマに
出演されている。
シーナさんも数年前に他界されてるし、2人のロック永遠なれ!です。

写真は1993年の『WOOD』テレビエアチェック画像より。
カテゴリー: ミュージシャン
(2023年01月12日)
投稿者:suoyon
truth_jbeck (1)





Jeff Beckが逝っちゃうなんて!!78か。
その病名が細菌性髄膜炎ですか、、気になるところ。
1967年ころかなあ・・中学生の時、同級生の女の子の小山さんが
ジェフベックはいい、と言って、その頃ベックを知った。
小山さんは早いよねえ。
だって1967年じゃクラスで洋楽聴いてる人は少ない時代。
よくてビートルズ、男の子の一部はローリング・ストーンズ。
さらにその一部はクリーム、ジミ・ヘンドリックス聴いてた。

ジェフベックはギター小僧のまま大人になった人、天才的なギター野郎でしょうね。
バックグラウンドにはブルースがあるけどまともにブルース弾くだけじゃ飽き足らず
はみ出してた。クラプトンがまともにアルバート・キングのコピーとかしてペンタトニック
中心のソロなのに比べてベックはこの写真のアルバム『TRUTH』(1967)でも
「ベックのボレロ」とか遊び心があった。

そのアドリブは歌心あるようなブルージィなフレーズから
急にポジションをぶっ飛んで
低音に行ったり、全く独自のアームの使い方、
泣きのフレーズかと思いきや、ズルズルと
そこにはとどまらず全然違うポジションで効果的な音を出しちゃう、
みたいな予測つかない。
親指で弾くのでトレモロ的なフレージングの時は人差し指と交互になり、
音のダイナミクスが多少異なるがそれさえも「味」にしちゃってる。
先生について習ってたらこんなギタリストは出ない、
っていうロック創成期の自己流オレ流時代が生んだ巨人ですね。

ロック創世記、誰も先生いないので個性的な人出ちゃう。
師匠がいると本人否定しても絶対影響受けちゃうからね。

80年代だったか軽井沢のスキー場での夏のライヴで
スティーヴ・ルカサーとサンタナとジェフ・ベックが
ギターバトルをしたが、指の動きはキレイだがまったく心に響かない
エフェクター過多な音のルカサーがひどかったのに比べ、
ジェフ・ベックの音の太さ、フレーズの面白さ個性は抜群だった。
フュージョン系の巧みな速弾きとか、スケールとかじゃなくて、
観ててオモシロイし、ギターで遊んでるような、発想がこの人しか
考えられない感じ。情緒に流されないうちに音色でも楽しませちゃう、みたいな。
サンタナも歌心ある泣きのフレーズがよかった。

1967年のミケランジェロ・アントニオーニ監督の
映画『欲望』にロンドンのライヴシーンが挟み込まれていて
ジェフ・ベックとジミー・ペイジがツインギターで登場(ヤードバーズ時期か)、
ジェフ・ベックがギター壊すようなことをやってる。
但しこれは監督のリクエストらしい。
またこの映画の音楽担当はハービー・ハンコック。

マーティン・スコセッシ監督の『THE BLUES /Movie Project』という
数編からなる作品にもなんとトム・ジョーンズがブルース歌うセッションに
ジェフ・ベックが登場、ディストーションの効いたギターを聴かせてくれる。

ロックやブルースの時代からフュージョン時代にも対応して、
そうこうしているうちに
全く独自のギタースタイルを築いたミュージシャンでしょうね。残念。
カテゴリー: ミュージシャン
(2022年09月13日)
投稿者:suoyon
おおたか静流


シンガーおおたか静流が9月5日に逝ってしまった、肉腫とのこと、信じられない。
一緒にバンドもやったし、僕の曲を歌ってもらったり、おおたかさんの曲をアレンジしたり、
NHKにほんごであそぼ、では数年間ご一緒しました。
あまりに急に、こんな親しい音楽仲間が旅立っちゃうなんて、、、
同い年だし、38年くらいの交流かな。
とにかく凄いヴォーカリスト、尊敬する人、気取らない人、なんでも話せた仲間・・・
一緒にある時代をともにした。そんな時代は終わりなのかと、喪失感にさいなまれる。
ジャズ、ブラックミュージック、歌謡曲、民族音楽を超越してノンジャンルなヴォーカリストとして
唯一無二の存在感は圧倒的な方だった。
数年前にNHKの番組におおたかさんが歌うために作曲した「さよなら」が自分の曲
としては最後のコラボになった。この曲は大正時代の金子みすゞの詩に曲をつけた。
おおたかさんに最高傑作と褒められた、、、ほんとうに「さよなら」は辛い。
カテゴリー: ミュージシャン
(2022年08月01日)
投稿者:suoyon
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ビル・エヴァンスの特集を地上波のテレビでやってたのは驚き。
さすがNHK-ETV。
中身は、ジャズピアニストなのにクラシックの影響が強い、
ということに重点が置かれてた気もした。
エヴァンスのジャズの方の影響も追求して欲しかったけどね。
モード手法のことも出てきた。
ただエヴァンスさんはマイルスとの「So What」(1959)でモードを
提示しながらその後の自分のピアノトリオではほぼモードはやってない。
ライヴ(稼ぎ場所)がほぼ夜のジャズクラブだったので、酒飲み相手にはアートな
モード・ジャズよりスタンダード曲の解釈のほうが酒のつまみになったのか、
なんて思っちゃう。
マイルスも自分のバンドに白人のエヴァンスを入れたのは
1959年当時としては偉いことや。

エヴァンスの左手をと右手を見てるとあまり離れないポジションが多い。
つまり左手の重低音と右手の高音での派手な表現がない。
内省的で知的。それまで(1950年代後半)ジャズというと
黒人、ブルージィ、バップだったが、そういったことを全く変え、普通の人々の日常性みたいな
感覚を持ち込み大げさな表現もない。オレがオレがという感じもなく、
ベースとのインタープレイという言葉が生まれた。
ジェレミー・スタイグやジム・ホールとのデュオも良い。
ジョージ・ラッセルと実験的なことも一応やってる。
ジャズって演奏家の自由な演奏表現が音楽変革をもたらし
歴史を作っちゃうところが面白い。

派手なオスカー・ピーターソンなんかと真逆のセンス。
ハンコックもコリアもエヴァンスがいたから、ちゅうのあるんでしょうね。
1973年に芝の郵便貯金ホールでのコンサートを観に行ったが、その日の演奏が
「Live in Tokyo」になっているのがなんか嬉しい・・僕の拍手も入ってる!

写真のアルバム『Waltz for Debby』の中の「Waltz for Debby」は聴きやすい
ので名曲名演奏となっている。入門的なアルバムかも。
僕はヴィレッジヴァンガードとか、モントルーのライヴとかいろいろ好き。
ベーシストのスコット・ラファロ作曲の
「Gloria's Step」はUpper Structure Triad(上部に非機能的な3和音を堆積)
の使い方などで講師仕事の題材にも使い、お世話になってます!
カテゴリー: ミュージシャン
(2021年09月27日)
投稿者:suoyon
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作曲家の桜井順さんが87歳で亡くなられました。
いや〜ショックです・・・寂しい。

20年程前JASRACの評議員をやってた時に
桜井さんも評議員で、同じ小林亜星さん、野坂昭如さん、
なかにし礼さんのグループに僕も入ってたので何度かお会いしました。
桜井さんはCMの大御所作曲家であり野坂さんが歌った
「黒の舟唄」も書いています。
僕が40年以上前CM音楽を作曲し始めた頃、桜井順さんはすでに
すごい存在でした。
資生堂かなんかのCMでテロップに音楽:ブレーンジャック桜井順て出て、
カッコいい!と。

僕の作曲した曲をTVで偶然聴いてくれ感想を言っていただき
尚且、なんと褒めていただき大変励みに思った思い出があります。
先輩作曲家に褒められるって、けっこう嬉しきことでした。

日本のCM音楽の歴史に必ず出てくる三木鶏郎の冗談工房に
桜井さんもいた方。
とにかくいつもジェントルな感じで接していただきました。
ご冥福を祈るばかりです。
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