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写真は信濃毎日新聞に載ったドビュッシーの直筆スコアの記事。


昨年2012年は歴史的な大作曲家のクロード・ドビュッシーの生誕150周年だった。
東京日本橋では美術館でドビュッシー展が開催されたが、佐久でもドビュッシーの直筆スコアの展示がされた。
僕はその開催日の朝11時に行ったけど3人くらいが見てるだけで、ちょっと寂しかった。
まあ仕方ないでしょう。ドビュッシーって、ベートーヴェン、モーツァルト、チャイコフスキーなんかに比べたらミーハー人気の作曲家じゃないもんね。それでいいんです、ドビュッシーのこと簡単に解られてたまるかっ!みたいな・・・

管弦楽曲「夜想曲」なんかはしょっちゅう聴いていてほんとうに好きだ。
特に新しいレコーディングversionのオーケストラのを買って聴いた。フランスの国立リヨン管弦楽団で2000年代の録音。1970年代のオケの演奏と比べたら、明らかに今のオーケストラのほうがグルーヴ感がある。いわゆるノリがあるっちゅう感じ。
特に「夜想曲」の第二パートで3連系のリズム、ちょっとボレロ風とか、そういう南フランスからイベリア半島系のラテンのリズムが出てくるが、そのテンポ感はしっかりノリを捉えた演奏をしている。
クラシックにはあまりキープしたリズムにグルーヴするという感覚がないので、つまりメロディ自体の譜割りのリズムをリズムと考えていて、ボトムとしてのリズム感がないのだが、今の時代、現代の人になるにしたがって育ってくる状況にロックやR&Bなどがポップに溢れている
環境で育っているのでクラシックの人たちもやっとノリのある人々がどんどん出てきているのだと思う。これは素晴らしいことだ。

あと、最近やってる軽の車のCMでドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」がずっと使用されている。それも田舎に戻った若夫婦のホームドラマ展開に以外にもドビュッシーが合っていて面白い。
まあ結局ドビュッシーといっても人気あるのはわかりやすいこの曲とか、「月の光」とか、
ちょっと変わったところで「ゴリウォーグのケイクウォーク」とかね・・・そんなところです。
バラエティ番組での答えを出すまでの間の音楽もドビュッシーが使われていたりしている。

よくとらえれば、ドイツ系の説教臭い、でも人生の本質に迫るようなマジな、そしてわかりやすく盛り上がる系のクラシック名曲ばかりでは現代の多様な価値観を表現できなくなり、ついにドビュッシーさんの登場となったのか、とか、勝手に想像しているわけです。

東京で開催されたドビュッシー展ではストラヴィンスキーやエリック・サティとの2ショット写真も展示されていて、これにはちょっと興奮した。
ストラヴィンスキーはドビュッシーより後輩になるが、ロシア、ペテルブルグ音楽院でリムスキーコルサコフ先生に作曲を学んでいる時、リムスキーコルサコフ先生は学生たちに「君たち、ドビュッシーだけは聴いちゃいかんよ」と言っていたのだ。しかしセンスある学生たちのアイドルは皆ドビュッシーだけだったと、生前のストラヴィンスキーが自ら言っている。
またドビュッシーはサティに「もっとフォルムのある作品を作曲せよ」とも言っている。

同時代にモーリス・ラヴェルがいる。ラヴェルもめちゃ好きな作曲家だ。ドビュッシーよりきちんとしている気がする。特にエンディングも丁寧に書くところはさすがラヴェルだし、オーケストレイションの魔術師と言われるくらい「ダフニスとクローエ」のオケなんかほんと凄い。
ドビュッシーはそれに比べると発想が天才的でどこかに翔んでいていってしまう感じ。それでまとめられなくて以外にもド・ミ・ソで終わったりもしている。

しかしドビュッシーさんは2人の女性を自殺に追い込み、サックスと管弦楽の為の幻想曲では依頼主からギャラだけもらって完成させず、とかけっこうやんちゃしている。
また生まれは貧しくおばさんの家で育つようになってピアノを習い一気にその天才ぶりを開花させたようだ。
とにかく機能する和声進行を使用せずに、かといって前衛まではまだ行かない範囲での全く自由な発想での作曲、天才としか言いようがない。勿論時代が王侯貴族をスポンサーとする時代から移行して、必ずしも形式ばかりを重んずる傾向でなくなり、理論的にも平行5度の禁止みたいな窮屈なクラシック理論を打ち破っていったドビュッシーがいなかったら今に繋がるその後の音楽の自由な表現はない。