右肩下がりの経済学②

カテゴリー: 右肩下がりの経済学
投稿者: okamoto

【2013年07月31日】

成長の限界

環境の許容範囲を超えた結果自滅。地球の未来でないことを願う。

 

仕事とは何か

立ち止まって考える時間のある特権的な時期を過ぎると、就職という形で社会へ出てゆくことになります。商学部を卒業しながら「お金がお金を生むこと」に納得できない私は、最も商学部らしい就職先である金融、損保などをまず初めに除外、そして当然のことながら原発や公害さらには戦争に関わるものづくり企業にも進めません。当時の私はまだ「経済成長による豊かさ」に懐疑心を抱きつつも、世の中の役に立つものづくりこそが経済の本質との思いも強く、カメラメーカーに2年間勤めてみましたが、このころは既に、良いものさえ作っていれば良かった「倹約が美徳の時代」が終わり、目先を変えながら次々と新製品を出し、どんどん新しいものを買ってもらう、いわゆる、「使い捨ての時代」が始まっていたのです。当時の労働組合の考え方は、仕事は辛いものと諦めた上で、辛い仕事の代償としての賃上げ、そして労働時間の短縮のみが求められていました。レジャーや消費生活を楽しむ事により仕事で満たされない部分の穴埋めをしながら、企業との運命共同体を決め込み、膨らんだ利潤の分け前をおねだりすることが、「現実的な常識」となっていたのです。一日の大半、そして人生の大半を占める仕事の時間が楽しくないと認めることを拒んだ私は、きっと贅沢な人間なのでしょう。再び悩ましい時を過ごすことになりました。

 
資本主義の無政府性

60年代半ばには冷蔵庫、洗濯機に加え、東京オリンピックを契機にカラーになったテレビ、クーラー、自家用車が普及、日本中が経済成長の豊かさを享受した時代です。このころが、物心共に豊かさを感じた、戦後の一つの到達点だったのかもしれません。それから10年後には早くも短いサイクルで耐久消費財を買い替えさせる「使い捨ての時代」に突入してゆきます。かつて、工作機械のメンテナンスなどを仕事にしていた友人が、町工場の社長さんに「昔は10年もった機械が今は3年で壊れる」とよくお叱りを受けたと聞きました。「今は3交代で機械は24時間動いているのにね」と。生産設備がコンピューター化され、供給力が飛躍的に向上しても、需要が劇的に伸びるということは考えられません。これに見合った需要増の方策としては、車のデザインを丸くしたり、四角くしたりしながら目先を変えて、商品寿命の短命化を図り、ファッション性を取り入れることで「慢性的飢餓状態」を人為的に作り続けながら、グローバリズムの旗を掲げて他国の市場に土足で踏み込む以外に方法がないのです。供給の伸びを需要が吸収できなくなった「使い捨ての時代」に入ると、かつてのように機械の導入による生産性向上の成果のおこぼれにあずかることもままなりません。非正規雇用を増やし、過労死するほど働いた成果は、もっぱら投資家に還元されるのみで、生産性の向上は人々の暮らしを豊かにすることが目的ではなかったことを知るのです。こうした資本主義の無政府性を根本的に変革するべく、生産手段を資本家の手から労働者に奪取し、一定の統制の下での生産活動を想定したマルクス主義経済理論は、当時の圧倒的な供給不足という時代背景から、機械の導入がやがては地球環境を脅かすような過剰な生産力を持ち始めるという事態までは想定することができませんでした。1883年に没したマルクスがもしこの未完の思想を今でも発展継続していたならばどんな解決策を提示しているのでしょうか。「右肩上がりの経済」という常識を誰もが非常識と認識するまで原発はなくならないことを肝に銘じ、21世紀の豊かな社会論を私たち自身が創造していかなければならないのです。