限られた環境で肥大化した植物の運命は?

右肩下がりの経済学
人が幸せになる為の方法は経済成長しかないのでしょうか。既に成長の限界を超えてしまったこの世界が破滅を免れ、再生する為の処方箋は「右肩下がりの経済」に移行するしかないと私は思うのです。経済学者が避けてきたこのテーマに、わが身を振り返りながら挑んでみたいと思います。

メディアによる刷り込み
戦後の焼け野原の時代から立ち直り、テレビの普及と共に「アメリカの豊かな暮らし」をブラウン管のホームドラマの中に見ながら育った私たちは、それとは気づかずに資本主義社会の「経済成長による豊かさ」という洗脳を無防備にも浴び続けて育った世代と言えるでしょう。自転車を乗り捨てて家に走り込み、大型冷蔵庫をバーンと開けて大きな瓶から牛乳をラッパ飲みする子ども達の姿に衝撃を受けたことを鮮明に覚えています。
もう一つは西部劇。自由を求めて西へと開拓を進めるフロンティアの前に立ちはだかる「野蛮なインディアン」を、騎兵隊が銃の力で制圧するという「正義」の物語です。今でもグローバリゼーションと名を変えて世界を席巻するアメリカの伝統的手法です。
一家団欒の茶の間という無防備な空間に娯楽として何の抵抗もなく侵入してきたTV文化は、GHQの戦略による見事なイデオロギー教育だったことに今更気付くのです。夢のエネルギー・原発が導入され始めたのもこの時期で、読売新聞、日本TV の正力松太郎が深く関与していたことは有名です。しかし当時の私は「資源のない国」日本が「アメリカの豊かさ」を手に入れるには、原材料を輸入に頼りながらの加工貿易しかないと結論し、将来貿易会社で働く為に大学は商学部へと進むことになったのです。

疑問と向き合う
折しも時代はヴェトナム戦争、70年安保と沖縄返還問題そして高度成長の歪から水俣をはじめとする公害問題が頻発していたころでした。人生何が幸いするか分からないものです。こんな時代だからこそ、私にも改めてもの事を根本から考えてみる機会が与えられたのです。
人の命を脅かしてまで利益を追求する企業の倫理、そしてお金がお金を生むという成長の論理に納得がいかない当時の私は、時代の流行だったのか単なるへそ曲がりなのか最も商学部らしくないマルクス経済学のゼミを選択したり、東大工学部で宇井純さんが主宰する「自主講座・公害原論」に顔を出したりと、「資本主義経済の謎」に迫ろうと試みていました。

常識というイデオロギー
「経済発展を目指す」ということだけが現実的なのであり、今ある現実を常識として固定させ、それ以外は現実離れをした単なる空想、理想に過ぎないと一蹴する手法は、今無いところのものを目指すオルタナティブな思想の芽を摘む為の最も有効な手段です。
そういう意味からも「想像してご覧...」で始まるジョン・レノンのイマジンは当時もそして今も常識に対する脅威なのです。
私が「お金がお金を生む」という常識=イデオロギーに疑問を持ち、「贅沢な悩み」を持ち続けた訳はただ一つ、一度だけの人生を誰にも騙されることなく自分の納得のゆく生き方をしたいともがいた結果です。宇井さんは「自主講座」の中で、公害を生み出すような経済発展至上主義(現代の常識)は当分変わりそうもないとする大方の悲観的な考えに対し、「江戸の中期にこの社会が変わると思った人がどれほどいたのだろう」と答えています。

続く